心の声という勘違い。

心の声という勘違い。

『心の声』 と 『気分』

肚に決まっているものが、『心の声』
その時々の状況に現れ、流されがちなのが、『気分』

肚に決めたものは、なんとしてもやり抜いた方が良い。
どんなに苦難があったり、苦節があったとしても、
肚が感じたて決めた先にあるものが、
自分の本当に欲しかったものだったりする。
自分でさえも気づいてなかった、本音にたどり着けることがある。

そこを遮るように邪魔をするのが、『気分』だったりするから厄介。
この 『気分』 は、とにかく質の悪い優しい声のときもある。
それも自分以外の口から聴かされることもままあるので、余計に厄介。
わたしも含め、人は楽な方へ流される傾向が強いので、
この無責任ともいえる『優しい声』は他人を通して聴かせてもらうことが多い。
それをまるで自分の『心の声』だと勘違いさせるからもっと最悪だ。

その勘違いをさせる元凶となるのが、よくある職業の
占い師、カウンセラー、セラピスト、コンサルタント
だったりするので、己を顧みるごとになんとも複雑な心境にもなったりする。

この手の職業の人の意見を取り入れるという行為は、
自分の決めた選択を 誰かにもらえる安心で補おうとする行為であって、
やる・逃げる・止める自分への言い訳をするために、他人を使っているようなものだろう。

“〇〇という人に言われたから、これをやり続けてもきっと大丈夫。
△△という人からタイミングは今じゃない、やり方が違うと言われた。
だからわたしはそれを続けるのをやめて様子をみることにした。”

誰しも、わたしも含め、自分が決めたことを他者に評価されるかのように
安心をもらえたら、感情的には助かるし、うれしかったりもする。
だけど、言われたことの逆の出来事が起きた時、
誰よりも本人が一番悔しいだろうし、辛いし、怒りを感じるだろうから
失敗したことの原因を他者に押し付けてしまいたいだろう。

自分がやると決めるのも、それを止めると決めるのも、
結局は、他の誰かでもない自分が決めている。
どちらも決めれないというのなら、それは決めないということを自分で決めているだけだ。

占いを使うのは、あくまでも自分の仕様書としての照らし合わせにしか過ぎない。
占いは決断した自分の芯への安心材料とはなってはくれない。
そこに他人の何かを挟んで、物事を決めているうちは、
それは自分で本当の意味で決めていることにはならないから
結果的には何にも到達できないだろうし、手に入れることも、実感もないだろう。

本当の自分を知りたいのならば、ただひたすらに自分をやり切るほかない。
それが合ってても、合ってなくても、ただひたすらにやり切ってしまう方が、
自分の本音に嘘をついた生き方にはならないはずだ。

『真(まこと)の心の声』 を手にするというのは、
自分に嘘をついていない、後ろめたくない生き方をしている ということを
自分で自分にしっかりと言えることなんだろうと、わたしは思っている。

『真』 は 『心』 であり、 『芯』 である。

こうして書くと、本当に日本語ってよく出来てるなぁ(笑)
まだまだ使い方が成っておりませんが、少々でもこの気持ち伝われば。

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