貫洞・きりどころのばあさまのことば
たりずを観るより
いたらずを知れ。
己がいたらずを思い知れ。
自分は足りん、足りとらん、と不平不満と
自責め、自虐ばぁっかしても
何も残らんし、何も生まれん。
自分の足りない配慮や行動を反省しちょるようにみえても、
本当の反省にはならんのじゃ。
本当の反省言うんは、
自分の配慮含めた全てがちゃーんと筋道に届いとらんことを知ることじゃ。
足りとらんかったとほざくんじゃなかと。
そこまで至っておらん自分ば、しることじゃ。
最初、この言葉をもらったときは意味がわかりませんでした。
「足りず、至らず」の違いとは?
と頭を巡らせてもわかりませんでした。
しかもつい最近まで、偉そうにこの両方を混在して使っておりました。
ですが、今はほんのりと違いが分かり始めております。
「足りず」という気持ちは、本当はあって当然、できて当然、持っていて当然、などの思いや驕りがどこかにあるから。
もしくは、自分にはできなくて当然なんだという諦めという傲慢さ。
時には、他者と比べて努力を怠るための言い訳や、生き方や行動の手抜きに使っていたりするのです。
それに対して「至らず」は、自分の努力を含めたすべてにおいて、まだまだ満足の位置までには到達していない。
もしくは、一定のラインを越えていない。ということ。
全ての道程において、まだまだ自分の行動は至っていない途中であることをよくと知って謙虚であれということ。
いやはや、至らずの場所に立ちながらウッカリとその意識をどこかへと追いやり、ずいぶんとまた驕りの中に身を置いていたことを知りました。
きりどころのばあちゃんの鎌が飛んでくる前に多少の軌道修正はできたのか、、な?
とはいえ、まだまだこの言葉にも至らずの解釈でしかないと思うので精進するしかありませんね。