習うより慣れ。

習うより慣れ。

子供の頃、教えてもらった作法がなかなかうまくできず、
べそをかきながら練習をしていました。
失敗をするたびに、おやくどころのばあちゃんには手の甲や腕をピシャリとやれる。
コレが痛くて痛くてしょうがなく、
痛さと叩かれないようにするにはどうしたらいいの?と頭の中がいっぱいになっていました。
ついには気力も散漫となり、おやくどころのばあちゃんにはあきれられ、
その日は放りだされることとなりました。
泣いて泣いて、えずって、うまくいかないことにイライラする帰り道、
いつもは洞の中でも一番厳しくて怖いきりどころのばあちゃんが手招きしています。
これ以上にまだ叱られるのかと思うと居ても立っても居られず、
脱兎のごとく逃げようとしたものの逃げられるわけもなく、
しっかり鉈が飛んできておかげさま共々に連れ戻されることに(笑)

しぶしぶと土手に座るばあちゃんの隣に座ってびくびくしていたら、
静かにとても静かに珍しく長々と話してくれました。

「えぇか、習い方を知ったら、あとはやり方に慣れるだけじゃ。
失敗したら、手違ったところがどうして手違ったかを知ることじゃ。
どうして成功しなかったかを探すんじゃなかよ。
手違ったところを知って何度も練習するんじゃ。
じっくりやる。だから数をやる。
おやくさんが怒っちょったんは、
お前が上手くやろう、下手こくまい、怒られるまいと頭いっぱいになっちょらしたことぞ。
まじないは、自分がうまくやることじゃなか。
おかげさまが納得するように心を込めることじゃ。
納得してもらうために、丁寧に手順を踏み、ひとつひとつに想いがこもるんよ。
お前の自己満足でしかやらんことに、おかげさまは興味なかとよ。
そして怒られることにも慣れろ。
どのタイミングで、どんなふうに怒られたかで、手違いがわかるとよ。
その場で怒ってもらえることは、子供のうちだけじゃ。
大人になったら、わけわからんところで怒られるか、嫌われるだけぞ。」

いつも一言で終わるきりどころのばあちゃんがこんなに長く喋ったのは初めてのことで、
その出来事に衝撃を受けつつ、けれど言われたことが自然と胸の中に残っています。
そして大人になって思うのは、習い方だけでは心やモノコトの置き所や決め処は作れないという事。
結局、その習ったことを繰り返しながら、失敗をして、練習をして、試行錯誤して徐々に状況に慣れていくしかない。
何かしら習ったからと言ってすぐにできるようになるわけではないということを改めて思い出すのです。
何度も自分なりに時間をかけて繰り返しながらでないと、心から「そうか、そうだね。よし。」にはならないのだということに至りました。

昨今は、心の片づけ方を含め、モノコトのやり方や在り方の方法論(ハウツー)ばかりを求めているように思えます。
しかもそのやり方を学べば、今すぐに一生涯の問題が解決する、その悩みの終わりがあると思い込んでいます。
ですが、その心の片づけ方にしても、物モノの片づけ方にしても、方法を学んでも結局は参考程度でしかなく、
自分の試行錯誤と練習の行動の継続でしか問題の解決はなく、
そしてその問題の部分の種が芽吹かないように行動を継続する意識を持ち続ける必要があります。
そして、それらが本当に無意識のレベルで自分のものにするには相当な時間と意識改革が必要です。

40歳を過ぎると格段に自分を心と体ごと成長させることは、なかなかに覚悟が必要で困難であるということ、
即席で自分の在り方が決まるわけではないという、この2つの事を念頭に置いて、
死ぬまでの間に少しでも自分の命と生き方に責任が持てる在り方を作りたいと思い続けながらやっていくしかないということでしょう。

習うより、慣れろ。

きりどころばあちゃんの芯の通った声色は今も脳裏に残っています。

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