貫洞のばあちゃんたちの最高齢は明治生まれの方でした。
薄い緑がかったきれいな瞳で、ところどころに金髪が残っている白髪の美しい方でした。
この方は洞のばあちゃんにしては珍しく五体満足に見える方で、声も穏やかで嫋やかなご婦人でした。
そしてこの時代の地方に住む女性にしてはとても珍しく文字を書いて読める才女でもあったのです。
洞のまじない縁日の際には、集まった他のばあちゃんたちのために文字の読み書きを教えていた風景が今も目に残っています。
70歳、80歳を超えた女性たちが、最年長の女性から文字を教わっているのです。
物忘れやいろんな不自由が増えている世代にも関わらず、自分たちの名前から順番にフェルトペンで広告の裏に書き、雑談の中からその日の気になる共通のトピックを書き出し、記憶にしみ込ませていくのです。
そして、それに感応した思い出話をまた一人一人が語り、思い出したことを書きだす。
終わるころにはてんこ盛りの広告の裏紙が部屋いっぱいに広がり、それを愛おしそうに一枚ずつ集めて各自が持ち帰るのです。
その紙の中には、いつのまにか私の名前や、家族の名前、ばあちゃんたちの大切な人たちの名前が書かれています。
それを大切に抱きしめながら持ち帰る後姿を見た時、私はほんの少しの寂しさと愛されている大きな実感をもらっていました。
今でこそ当たり前に扱っている文字ですが、昭和50年代でさえ文字の書けない、読めないという世代の人が一定数いたのです。
識字率を調べる対象にその世代の人たちは含まれていませんでしたし、名前が書けるかどうかだけの判定だったようです。
本当の意味で、新聞が読めるのか、本が読めるのかは別のお話でした。
調べれば調べるほど、実際と統計の違いがあることを今も歯がゆく思います。
今、私は本当の意味で文字を大切に扱えているだろうか、と思うことが増えました。
私はここまで本気で考えたことがあっただろうかと自問自答すると、どれもこれも薄っぺらいものでした。
どちらかというと、考え受け止めるという本気を避けて通っていたともいえるでしょう。
過去の自分の書き物を読み返しても、顔から火が出るほどに恥ずかしさがこみ上げます。
自分の人生の向き合い方がそのまま出ています。
でもその中で間違いなく変わらずあったのは、ばあちゃんたちの姿とその想いです。
これからも拙いだろうけれど、思い出すごとにひとつひとつを遺していきたい。
これは私自身のある種の自己満足にすぎないのでしょう。
けれど、このばあちゃんたちが焦がれた文字への感謝と尊さをこれからも遺していくことだけは続けていこうと思うのです。
そして何よりも、本当の意味で心と命(文字)を尊ぶ人たちとこれからも生きていきます。