先日、メンバーに付き合ってもらい福島のほうへ行ってきました。
その道中の会話の中で改めて反省の機会を得られることが適いました。
今は発信すると幅広く狭く、多様の中に広がります。
そしてそれは音だけではなく、カタチとして残り伝わるので威力が強いです。
カタチの強さは、頭で思っている以上に理解している以上に、
威力があるのだな、ということを実感しました。
同時にその中にある思いや心の温度は、発信した者の意志意向とは違うカタチで伝わることもあるのですね。
あらためて過去の自分の残してきたものは遺していくものとなり、
時にそのカタチは自分だけの思う正義正解であり、ただの自分の感想であるので、
究極、自分だけのものであると言えます。
発して残すことは、押し付けて吐き捨てていることでもあり、
自分さえも覚えていない、誰かの異物になってしまうこともあります。
それらを自分の思う正義正解を一方的に発するときは、同意や共感以外にも、反対のカタチが返ってくることもあるのが正常なのだと自覚しておく必要があります。
だからこそ、自分の意見感想に対して同意を得ようとする行動や発言(返信)をしてもらおうという働きかけをする必要もないということも自覚する必要があります。
何を発して、何を残して遺していくのか。
もう一度立ち返る必要があるな、と思うと同時に、
立ち返るだけならばいくらでも適当ができてしまうので、
如何に日ごろからそれらを気遣いながら残していく必要があったということに気づきました。
気遣うということは、己の立場が社会の中でどう見られているのか、期待されているのかでもあることを理解していればこそできる最低限の行動選択であり、
何かしら思って考えてそのことについて発する前に、それらをそもそもに誰かに、不特定多数の人が見る場で言う必要が本当にあるのか?はよくよくと考える必要があるのだな、と思い至ったのです。
他者を思いやる風に見えても、その気遣いは結局、自分の芯にある思いや考えを守ることになりので、無駄に感情を軽率に揺さぶる行動になることありません。
SNSで発することの意味と意義、あらためて思考思案していこうと思います。
思いの言語化を含め、寄り添って意見を交えてくれたメンバーには感謝しかありません。
そしてこの場でこの発信を目に留めてくださった方に感謝しかありません。
ありがとうございます。
※加筆修正しなおしました。まだまだ手直しがいる文章ですね。
読みづらくて申し訳ありません。こういうところがダメで弱い(汗)