どうして私はこんなにも苦しい状況で不幸なんでしょうか?
友人よりも優秀なのは私のほうなのに、
友人のほうがいつも仕事でも恋愛でも幸せそうです。
私はこんなにも誰よりも努力だってしているのに、
どうして友人とこんなにも違いがあるんでしょうか?
パワースポットに行ったり、祈願祈祷もしているのに、
なんなら私はきりんさんのなごみ作法もやっている。
けれど友人のほうがご利益もらえていて、とても運がいい。
それに反して、私はどんどん不幸になっている。
何が悪いんでしょうか?
こんな質問をもらうとき、何とも言えない気分になります。
この方の言いたいことが痛いほどわかる。
同じ立場のようなお互いだったはずが、片方はみるみると充満した暮らしを手に入れており、片や一方は、自分が満足する結果を得られていないのですから、文句のひとつどころか、ふたつみっつよっつと重ねて言いたくなるのも当然でしょう。
とはいえ、何かを与えることは私には一切できません。
右から左に何かしらで運を拓くなどというまじないもなければ、ゲンをもたらすこともできません。
ただいつも思うのは、
運のいい人というのはどんな人のことだろうか?
ということです。
幼いころからこの立場を持ち、周囲環境をずっと観察してきてあらためて感じるのは、
本当に運がいい人というのは、人生の出来事において、自分が望む結果を手に入れることに執着していないことがほとんどです。
全く希望がないわけではないですし、欲望がないわけでもありません。
そこへの努力は当然のようにしますし、棚から牡丹餅を喜ぶことも当然あります。
ですが、運のいい人は結果が得られた、得られなかった、ということに対しての運の良し悪しをジャッジしていません。
むしろそのプロセスの中で、結果が得られるための何かしらのタイミング、ヒントなど、ターニングポイントになりそうな出来事に対してとても敏感にキャッチします。
しかもそのキャッチを正確に認知認識分析をします。
欲しい結果に対して、結果が得られるための正しい行動をします。
それが当たり前として受け入れ、行動を継続させていきます。
そしてその道筋の中で、適切な相談のできる場所や人がいないか、どんな些細なことでもそのモノコトに関する何かにリンクしないか、ということを常に観察をしています。
それらが集約していくなかで、結果を得られる行動になっているのかを確認するという作業も怠りません。
さらに、それらにつながる人やモノコトへの仲介をしてくれた人や状況に誠実に対応して、感謝の行動選択も忘れません。
何よりも、自分で決めた行動ルールをほぼ離脱することはありませんし、それらの決断や行動を努力と捉えることもありません。
(ただし、修正等が必要な時はその都度行動変化は選択しています)
最終的に、一段落、二段落とモノコトが落ち着いたころに最初を振り返って、
現時点の自分に対して「いろいろトラブルもあったし、うまくいかないときもあったけど、こうして成功しているのは運が良かっただけ」という表現をしていることが多々あるのです。
誠実に結果を出すことに行動をしている人というのは、やっぱり信用だけでなく信頼を得やすいということです。
結果の出来不出来や、人とのめぐりあわせや、置かれている環境に対しての運の良し悪しをジャッジする人ほど、運を味方にするという行動からはかけ離れているように思えます。
どんなに祈願祈祷してもやっぱり最終的には、自分に対して誠実に、環境に対してネガティブに責任を押し付けずに、感謝を忘れずに淡々と行動を選べている人のほうが、おかげさまも運も並走して一緒に動いてくれていることが多い気がします。
運の動きは常と我の日々にあり。
ですね。
己にあらためて刻みます。