先日、MG会議をする中で、こちらの記事を書いたことから、
起業のマネジメントのあれやこれやの中に、「管理される環境」が向いている人と「自分自身を管理」できる人の区別について議論した。
思い返すと、他者を含め、自分で自分に仕事や人生の相談する際も、比較的この「管理」の有無を確認することが多々あった。
そして会議中も、この「管理」というものを多用していることに気づいたとき、
そもそも「管理」を共通言語のように使っていたけれども、その定義や前提について同じ意味合い意義で共有していただろうか?と。
そこでいくつかの確認を投げかけつつ、齟齬がないようにしようと思ったところ、やはりズレはそこにあった。
同じ語をつかっていても、やはり人それぞれの価値基準も解釈基準も違ってくる。
そこのズレを理解しておかないと、勝手に相手も同じ考えだと思い込んでモノコトを進めてしまうのは後々よくないことだと思った。
そしてザックリというならば、同じモノコトを管理するにしても、
人には器量度量がまた違ってくるので、一定量であれば自己管理のもとコントロールはできるけども、
そこを超えてしまうと一気に把握ができなくなってしまい、できていたことができなくなってしまうこともあるということ。
その部分は自分にも他人にもあるということが様々な局面で見えてくる、経験させられることとなるのを理解しておく必要がある。
寛容や許容というのは、自分と他者の違いの中に気づきから育ててもらうことがほとんどなのだろう。
そしてあらためて思うのは、人生のマネジメントと言われるものは、
自分自身でどこまで自分を管理できるかであり、自分の管理できる基準を知っておく必要があるということ。
そしてその管理基準は年齢と共に、時世の状況よっても変化してくのが当たり前だと知っておくこと。
自分の管理基準が他者とは同じではないことと同時に、ひとつの組織や目的のためには一定水準をしっかりと作っておかないと、
常に誰かしらの基準に振り回されてしまって、自分の管理を逸脱してしまい、組織の崩壊や、目的目標が達成できない可能性があることを理解しておく必要がある。
そしてこんな風に面倒くさいあれやこれやを書き連ねているけれども、
私はそこそこの発達障害を持ち合わせているので、部屋の物量管理については理想と現実が全く違う方を向いているので、何かと切ない思いをしている。
さらに何よりも今は来る来年3月の確定申告のために早期から準備しておかねばと思っていたあれやこれやが、結局のところ手つかずで山積みなのと、
複数の旧事務所からの引き揚げた荷物の整理整頓を目のまえにして途方に暮れている。
私のスペックの足りなさにへこみつつも、なんとか土用前にカタチをつけつつ、年内にはもう少し、もう少し、と思いながらの連休の終わりを迎えている。
かん‐り〔クワン‐〕【管理】 の解説
[名](スル)
1 ある規準などから外れないよう、全体を統制すること。「品質を—する」「健康—」「—教育」
2 事が円滑に運ぶよう、事務を処理し、設備などを保存維持していくこと。「—の行き届いたマンション」「生産—」
3 法律上、財産や施設などの現状を維持し、また、その目的にそった範囲内で利用・改良などをはかること。