「我慢」
1 耐え忍ぶこと。こらえること。辛抱。
「彼の仕打ちには—がならない」「ここが—のしどころだ」「痛みを—する」
2 我意を張ること。また、そのさま。強情。
「—な彼は…外 (うわべ) では強いて勝手にしろという風を装った」〈漱石・道草〉
3 仏語。我に執着し、我をよりどころとする心から、自分を偉いと思っておごり、他を侮ること。高慢。
「汝仏性を見んとおもはば、先づすべからく—を除くべし」〈正法眼蔵・仏性〉
先日、MG会議の中で議論された内容。
生きていると当たり前に理不尽があり、その人個人の社会環境によっては大きなストレスとともに我慢を強いられることもあるでしょう。
確かに自分の心身が悲鳴をあげる、削れ壊れるところまで我慢をする必要はないでしょうが、ちょっとしたネガティブな感情に対して過敏に拒否反応で状況を断定して行動を決定してしまうのは、これもちょっと違うのかな?と思うことがあります。
瞬間、瞬発的な反応で出てきた嫌悪の気分が、自分の本当意味での気持ちや感情のすべてだと思い込む可能性があるのです。
実際はワンクッションおいてみたら、数時間、数日、なんだったら1年ほどおいて落ち着いてみたら、まったく拒否感のなかったものだったりもしますし、嫌悪感の原因はまったく別の部分だった、なんてこともあったりします。
そして短絡的にその気分に出てきたものが自分の正直な気持ちだと思い込んで長期的に過ごすと、本来の自分の満足納得、充足するものから遥か遠くなってしまうことがほとんどで、一定の中年期を超えたあたりから自分探しを始める人が増えたりもします。
自分が嫌だと思う感覚は見過ごさずに我慢しないほうがいい。
というのは一理はありますが、やはりそれは本質本根の自己理解があってこそでしょう。
自己理解が不十分であるのだとしたら、やはりそこはグッと一旦は我慢をして受け入れてみることです。
そして、受け取りたくない、我慢してる、つらい、と思う感情が止まらないのであれば、
私はなぜ?どうして?この件を受け取りたくないと思っているのだろうか?としっかりと考えて言語化することです。
この言語化をする作業は年齢を重ねるほど面倒になってきますが、他者と関わりあいながら生きていかなければならない私たちにとっては、自分がどう感じ思っているかを具体的に伝える必要があります。
この言語が進めば進むほど、他者との関係においても無駄な諍いが減ることもありますし、言語化によって他者理解も深まることも期待できるのです。
そうすることで相互理解の中に許容や共有が生まれていくのでしょう。
現代の我慢しないは、時に横暴で傲慢な立ち振る舞いで、一番身近で大切にしなければならない人を振り回していることが多々あります。
自分の「我慢しない」が、誰かしらに負担を強いて「我慢させていないだろうか?」と今一度、見返してみてください。
我慢をするということは、人生においてネガティブなことではなく、
自己理解を深め、自分をより充足させ、他者や周囲環境と融通させていける大事なもののひとつであることを知っておかれると良いのでしょう。