1月後半、冬の土用の真っただ中で、命(ニク)の別れたちがありました。
杜頭の立場としてシンラへの見送りを済ませ、
日々の中に戻りつつも、心はとてもとても悲しみと寂しさと恋しさが募っていた2週間でした。
初午や日々の作法の立ち返りや、仲間の支えがこの別れの隙間を埋めるように存在してくれていたおかげで、無事に過ごした2週間でもありました。
そういった有難い状況のおかげで、冬の土用の作法も〆ることが適い、あらためて巳年の流れが作れました。
そして、あらためて2025年からの巳年を想い祈ることでわかるのは、
大きく作る、大きくする、大きく動かす、という時代から変わり、「充足、充満」がテーマとなる時代の始まりを感じています。
この2週間近くにいただく仕事やモノコトのすべてに共通しているのは、
どんなに条件満たされた環境の中にあっても、個人個人の満足する基準というのは大きく違い、どれとして同じものはないということでした。
条件はあくまでも暮らすうえで必要な物理的条件でしかすぎず、心の満足度というのはそれらで埋められるものもあれば、そうでないものがあるということです。
そして条件がきっちりと十分にそろっている人ほど、幸福であることの満足よりも、本質の満足が得られているか?という現実が露呈してしまうようです。
こうなると、自分の環境と自分の中の本質とのバランスが取れず、心からの幸福度は中途半端で、「自分は大丈夫なんだ、他人と比べて十分に幸せなのだ」と言い聞かせるようなそんな人生になります。
ある程度暮らしの条件が不ぞろいの人のほうが、そこに集中して行動を選べている分、本質について視野を向く余裕がなかったりするので、ある種のバランスが取れた状態とも言えるのでしょう。
そしてそれら行動が十分に自分の幸福度や承認度をあげてくれており、不ぞろいながらも、人によっては十分に本質との対話が成立していることもあります。
条件に満たされるという環境は時に心の、本質の求めるものから視線がずれてしまうことが多々とあるようですし、かといって、この暮らしの条件があればこそ安心安定があるのも事実ですから、どっちが良いというものではないというのが真実です。
私自身の経験からあらためて思うのは、人は不ぞろいの中で常に生きているからこそ、自分の心と命の尊みと他人が同じくしてあることを真ん中に置いて生きていくということ。
自分がどこまで何を求めて満足なのか、そしてその満足が他者を傷つけてまで欲しいのか、それとも自分以外の誰かの満足が自分にとって喜びとなるのか、さまざまにカタチがあることを知りながら生きることもまた幸いであるということなのだと思うのです。