《雑記》密教祈祷による効果作用の有無を問われる

《雑記》密教祈祷による効果作用の有無を問われる

今から2年ほど前でしたでしょうか。
不特定多数の人を対象に一般鑑定を関内で月1ほど出ていたとき、初めましてのお客様に、

「一般的な密教寺院の祈願祈祷って、誰にでも効果作用があるものですか?それらを占ってほしい」

と聞かれたことがありました。
私がたびたび紹介されている某寺院の師僧のブログ記事をその方は読んでお越しになっていたので、何かしらの意図があってこのようなご質問をされたのでしょう。
そして、この方のお名前は後日、別宗派寺院の師僧からも出てきましたので、おそらく密教系寺院で、あれやこれやと問題を起こしては破門、もしくは出禁を言い渡されていたようです。
その当たり散らしに私のところへ鑑定に来られて何かしらの種を芽吹かせたかったのか、はてまた、射てコマしたかったのか今になってはわかりませんが、
密教に関わらず、この方は祈祷やまじないに対して負感情、拒否拒絶をお持ちなのでしょう。
ですが、その界隈に首を突っ込んで絡んでくるあたりは、どこかにこれらに期待したい他責感もあったのでしょう。
もしくは、自分の主張の正当性を何とかして根拠ある何かにして証明したかったのかもしれません。
この手の質問は、この方に関わらず、挑み系(イチャモン付けたい。マウンティングしたい。)の方々に多いように思われます。

話を戻します。
当たり前のことですが、私はこの手の質問に対する占いはしておりません。
この手の質問は拙堂から見れば、愚問としか言えないわけです。
祈祷のシステムを理解されていないからの質問なんだろうと、今では思います。
そもそも、このようなことを占い師に占ってもらうことでもなければ、同時に占い師が占じるようなものでもないからです。
そしてもしこれらのことを引き受け占う占い師がいたとしたら、これまた占いのなんたらの占術、占的の建て方、用神の持ち方、向けた方、占断の置き方に曖昧さが生まれていることを律していらっしゃらないな、と思うのです。

まず、「一般的な密教寺院の祈願祈祷が誰にでも」と言ってる段階で占いにならないのです。
そもそも祈祷は神仏とその依頼者との間の話であって、効果作用については「対」であることが重要です。
だから個人の神仏への信仰や、日々の他者との繋がり関わり合いであったり、その人自身の生き様、心の置き処、社会的貢献、問題の起における負罪負業の何某となります。
ですから、祈祷による効果作用は個人の資質に問われるのです。
もちろん、行力法力についての祈祷する側の資質も大いに影響はあります。
それを一緒くたに「誰にでも効くから、優秀な寺院。まともな寺院。まともな祈祷。」という括りは乱暴なのです。
もちろん、不真面目に祈祷をしている寺院もあるでしょうから色々とご意見あるのかもしれませんが、
愚なる祈祷者を飛び越えて祈祷の作用が適うこともあるので、面白いと言ったら語弊がありますが、これは依頼者の日頃の信心信仰と日々の行いから見れば当然の結果であったりするのです。

一般的な密教寺院の祈願祈祷が誰にでも「かなう」か否か、で占うことは愚問の一言となります。
そして願いが「かなう」という言葉の意味をもっとしっかりと知ることが実際の祈願祈祷につながるのかと思います。

もし、自分が何かしら祈祷祈願で密教寺院のどこからしらに依頼をしたいということで、懇意にしている寺院がなく祈祷場を迷われてのことであるならば、占い師にそれらを占ってもらうなどせず、実際に自分の足を使い、目を使い、身体を使って何度もその場に足を運び気持ちを決めることです。
そして何よりも、日々よりその神仏に対する信心信仰が自分にあるかどうかをよくよくと見極めることです。

※かなう……叶う・適う・敵う・和なう・諧・協う・金生。たくさんのかなうがありますね。

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