祈願祈祷の通りとは何ぞや。
まじないのご依頼を受けるたびに、このことは触れさせていただくテーマです。
「依頼者⇒術者⇒神仏⇒依頼者」
という図式の「⇒」の方向性や強弱を路づける、手伝う役割なのが行者なのですが、ご依頼を受ける際に既に通りの叶わないものがあるのも事実なのです。
通らない理由をひとつずつあげていけば限がないのですが、思わずにいられません。
「限がない」きりがない。かぎりがない。げんがない。験がない。。。。
色々と考えても、「験がない」の一言に尽きるのかもしれません。
祈願の通りの有は、本来は通ってあたりまえ、叶って当たり前、の案件が何かしらの理由で通りが悪くなっていることがほとんどなのでしょう。
その通りの悪さ、詰りや路間違え、引っかかりを行者が交通整理をしたり、配管の付け替えや、掃除の手伝いをするようなものなのでしょう。
そこには行力という術力としての底力や肚力が必要なわけで、そのためには日々の精神肉体精進修行が結果をモノ云うのも事実です。
そして同時に、依頼者の日頃の行いが絶対的に必要になり、そこに信心信仰というものがより後ろ盾や追い風、押し上げとなって祈願を通すように思われます。
時として依頼者の「信力」なるものを問われることがあるのですが、これは信心信仰における信力だけでない、自分自身との信用信頼関係がどれくらい成立しているか?ということも問われているのではないかと思うのです。
ここについてはまだまだ私の中に、感覚と言語が一致していない部分が多いので書き留められる部分が今はここまでですが、いずれ言語化が進めばまた書き記していきましょうね。
祈願の通りの否は、大きく期待を裏切られたような気持になることもあるかもしれませんが、別の角度から見ると通らないだけの理由があるのでしょう。
依頼者自身の未熟さや傲慢さなど、日頃の行いが大きく問われますし、神仏が通らないほうが良いと判断すればさらに別の作用が生まれることもあります。
(別の作用⇒祈願とは違う依頼者にとって望ましくない現象が大きく出てくることもあります)
本来、通らないものは叶わないものであるとも言えます。その意味や理由は、誰かに何かを訪ねて答えをもらうのではなく、いずれ自然と自分で知るための大切なプロセスであったりもするのです。
とはいえ、行者術者の手によって本来通るものが通らない場合は、これは術者の未熟故とも言えますので、常に精進怠らるべからず、となるのでしょう。
そして同時に、行者術者が祈願叶えたとは決して思ってはならないのである、ということを念頭に置いておく必要がありますね。
信力は信心信仰だけでない自分自身との信頼関係の結果。(依頼者・術者ともに)
行力は行者・術者の日頃の精神肉体精進修行の結果。
ということですね。
夏の土用が参ります。皆様の心と体、家の滞りに手当は進んでいますか?
ゆるりと丁寧に参りましょう。
なごみませ。なごみませ。ながれなるるとなごみませ。