護摩紙垂作法6日目と淡々とやる。

護摩紙垂作法6日目と淡々とやる。

6日目、淡々とあるがままに作法を修。
モノコトへのこだわりを捨て、
やることをただやる。
そこに何かの期待を乗せるでもなく、
「やる」という行動だけを繰り返します。

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おはようございます。
6日目はより土台となる場を固めるように淡々と作法をいたしました。
磨くところは磨く。香りを届けるところへ届ける。
固めるところは固める。水を流すところは流す。
灯明を捧げるところには捧げ、塩みをお渡しするところには……。

ひたすらにひとつひとつの所作を作法の中で繰り返します。
そこには感情も思考も入れません。
淡々とこなすのです。
ただ目の前の方々にそれを差し上げる。
相手の受け取りがあるかどうかは別のお話です。
作法開始直後は受け取りしてくれないことがほとんどですが、
淡々と此方がこなしていると、やがて気づけばなされるがままに身を預けてくださることも多くなります。
やがておひとり、おふたりと、作法の場から蓮華の上へと移動されます。
残る方もまだまだいらっしゃいますが、それにも淡々と変わらずの所作法を続けます。
移動された方々は無事にあちらへと運んでもらえるように仏に任せ、
そして残られた方にはできる限り、希望される所作法を差し上げます。
一通りの所作法が終わる頃には肩の荷が下りる、脳の芯がやわらぐのがわかります。

作法について色々とご質問を頂きますが、一連の作法に特別な意味意義は持たせていません。
古くから伝わる手法所作ひとつひとつに全く意味がないわけではないですが、それを一般公開で明らかにしておりません。
ただを淡々と繰り返し作法しているのだけをお見せしております。
そして私自身が作法をするにあたり、今回の10日間は目的があっての作法となりますので、ただひたすらにそれらを重ねるという感じです。

この感覚を言語化するのは非常に伝えづらいし、わかりづらいと思うのですが、余計なことをごちゃごちゃ考えて、できている、できていない、結果が出る出ない、失敗するしない、という我の不安というものを一切脳内から省いて、やることをやっているだけなのです。

10日間やる。そこの結果をどうこう今から心配するよりも、まずは10日間やるのです。
何かしらズレを感じれば、修正しつつ10日間をやり通す。
ズレを無視せず、そこに己の我心は一切挟みません。人を挟めば碌なことにはなりません。
作法をやって頂くうえで、自分の出来不出来を持ちこむなど、お前は、手前は何様か?ということです。

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