自分の部屋は汚れていても、気にならない。
気にしていないわけではないけれど、なんとか誤魔化せてしまう。
もしくは自分の中のボーダーラインを越えて居なければヨシとする。
けれど、他人の家に行くと矢鱈と汚れや整理整頓の不都合を見つけてしまう。
これは他人の店でも同じこと。
なんなら誰かしらの発言を目にすることも容易になった。
自分のルールと違うだけでも、ざわりと違和感となって心地悪さを口にしてしまう、もしくは態度に出てしまう。
いや、この二つが出ていなければ、漏れていなければ無難に社会人間交流はなんとかなる。
どうして他人の粗を見つけてしまうのか。粗を見つけてしまうのか。
随分と長らくと考えながら、感じながら、ばあちゃんたちに聴いたことを思い出しつつやっと言葉にしたためる。
とはいえこれから書き留めることもまた賛否両論だろうし、私の中の全ての結論ではないことを読んでいる方には留めていて欲しい。
なので、途中で変わることもあるかもしれない。
言えるのは、人間というのは人の間と書くだけあって、単独では生きていけない。
どんなに孤独で孤立をしていても、今現段階の社会においてこの現実世界の中で生きていくことは、人の合間に生かせてもらっている。
だからそれだけでひとつの調和の中に住まう生き物だ。
人間は本能的に集団で生きることを選べる。当然のようにして生きる。
だから調和を良くも悪くも重んじる本能を持ち合わせている。
その違和感が少しでもあると調えたくなる。
それは今現代では計り知れない過去の生存のために必要だったもので、インフラが整う前というのは生き死にが当たり前に横たわっていたからこそ。
簡単に感染症で死ぬこともあるし、ちょっとした躓きで打ち落ち損じてしまうこともあった。
だからこそ、身近なものに対する危険を自分だけではない、一緒に生きていくしかない相手にも発動させていた。
場合によっては、ほんの少しのほころびも油断できなかった。
それらから逃れるために、様々な試行錯誤の生活工夫があり、畏怖と尊敬、信心と信仰が生み出されている。
現代は、生きられる。
あきらかに安全ラインを越えている。特に日本は。
だからその本能を使う場所が極端に変わってきている。
ノンキにそれらを使うことができるし、使わないこともできる。
何に使うかをノンキに選べるのが現代なのだろう。