先日、この話を後輩としていて
その流れからまた派生したことを
大雑把なりにメモ。
「育成には期待があればこそ指導をすればこそ。
なのに、途中で投げ出されたり、
育て切ってから他に取られてしまったり、
散々すぎてうんざりします。
あの時の先輩はどんな気持ちで
後進を育てて裏切られても平然としていたのですか?」
彼女の気持ちは痛いほどわかる。
平然として見えてたならば、
私の美学、狭義としては、
「よっしゃ!」というガッツポーズだわ(笑)
とはいえ、彼女の中の解決というか、
ひとつの指針になるならばと話をした。
そもそもに、育てる側が期待の種類を履き違えないこと。
教えるにあたり、
個人としての素材を伸ばしてみたい、と思えばこその教えてあげたい意欲。
その教え子そのものに魅力を貴女が感じたから教える気にもなった。
そして次に、
事務所(会社)にとってこの子が育てばメリットがあると計算したから。
そのメリットが何であるか、を経営者である貴女がちゃんと詳細まで把握をしておくこと。
そしてそのメリットが事務所としての利益に繋がることも大前提であること。
事務所は利益が見えてナンボで人を使うということ。
この二つの中に自分の感情や労力、時間、全てが投資されるということ。
そのうえで、教え子が途中でリタイヤした、もしくは育ち切ってから他に移籍したという場合の自分の心の処理の仕方は、
『教え子は推しだった。推しが引退した。自分のステージからいなくなっただけ。』
勝手に自分が応援をして『推し』に未来を期待してただけ。
しばらくはロスが続くだろうけども、次の推しが現れるのを待つか、自ら探しに行くかの選択のみ。
『事務所に居たいと思ってもらえる魅力がなかったから、移籍されただけ。』
貴重な人材を玉財として扱っていたかどうかを問われただけで、結局のところは経営者の手腕にかかってくる。
ある一定のやれること、与えられることを続けたとしても、事務所の規模や状態状況によっては、その人材にとっては魅力がない、力がないと思われてしまったら、そこはしょうがない。
自分の事務所が弱小だったからだと思うこと。
技術やアイデアを持って行かれたならば、それを越えるナニかを生み出すほかない。
特にメディア関係の仕事は常に追いかけっこ状態で、出せばパクられて当たり前。
なんだったら、後から出した人の方がもっと上手で旨味が出せてるなんていうのもザラにある。
結局のところ、技術の進歩はデジタル時代はあっという間で、
とられる程度のどんなアイデアは、所詮、誰もが当たり前に閃くことだったりする。
ただ単純にちょっと出すのが、気づくのが人より早かっただけ程度だ。
それが嫌だったらあらゆる手を考えて、教え子にとって事務所の居心地がよいと感じられるように努力する必要がある。
それらの努力度量については、相手に一切押し付けないコト。
勝手にこっちがやってることを相手がどう受け止めるかは相手のモノだから、勝手に期待して勝手に絶望しないこと。
いなくなって残念に思うことや裏切られた気分気持ちになるのは当然のこと。
エネルギーを大きく消費していたからこそ、その残念度は大きかったりもする。
けれど、だからといってその残念を押し付けてはダメ。
押し付けても何一つ事務所(会社)には一銭の利益も生み出さない。
そういうエネルギーの浪費を自らの責任で止めること。
~してあげたのに。
~して○○の無駄だった。
このセリフほど他責の他責で、自分の今までの努力や、
いいコト言って自責風味をドヤってた過去をどこまでも台無しにしてしまうだろう。
後進を育てるということは、大きく期待すればこそ。
ただし、その期待はあくまでも未来的予測の成果に感情のワクワクと実利があってのこと。
それがない、なくなったというのは、ただの期待外れだっただけ。
外れたことをその元種(モトタネ)に文句を言ってもしょうがないのだ。
そして次なる果実の育成をするしかない。
悔やんでも、残念がっても、時間は常に未来に進んでいるのだから。
なかなか割り切るのも大変なことだろうけれども、
理性を言語化することで、
残念と哀しいの感情に言い説き聞かせて進むのも経営者の手腕・器量と言えることかもしれない。
頑張れ、踏ん張れ、後輩!!!
君の全ては更なる後輩が観てるぞー!