向き合うということ。

向き合うということ。

出張前に別件の打合せをマネージャー女史としていたところ、
ささやかな指摘からとても大きな気づきを得て、大いに反省する部分だと思い記すこととしました。

土用の作法が最終局面にきていることもあり、やたらと「向き合いましょう」を口にしている傾向があったのですが、
そもそもに「向き合う」に対しての、基準をお伝えしていなかったことに気づきました。

嶽啓道における「モノコトに向き合う」というのは、
自分の現実と環境の現実の乖離を調整することでもあり、正確に認知認識することが必要としていますが、
それはモノコト、自身の心の状態状況に対して、良し悪しのジャッジを決めつけすぐさま修正、行動変化させることではないということです。
自分のできていないことや、至らずを責めて、追い立てることではないのです。

まずは、自分の中にあるモノ・コトのすべてに対して、心のヒダから真ん中に至るまでの状況状態を見定め、
そして周囲環境に対して何を思い、何を感じ、何をしたいのか、何を影響させていきたいのか、などの在るすべてを知り受け取り抱えることなのです。
まずは在るを知ること。感じること。味わうこと。
これが向き合うの原点原初、モト(元・素・基・許…∞)となる「キ」となります。
そしてこの「キ」そのものが、次なる行動を決めるカタチの種となるのです。
(「キ」…基、器、機、期、祈…∞)

向き合うというそのものをする行為が、嶽啓道における信仰の原点原初であるシンラ(世界)との交わりであり、己がその一部であることを実感していくのです。
そしてその実感の中から、次なる自分の人生のためにできること、やっていくことを決めて行動を変化させ、ゆがみや乖離している部分を修正する日々の調えとなるのです。

まだまだ嶽啓道の口伝の部分をかみ砕いてお伝えするには、私自身が未熟で言葉が足りず、すべてをしっかりと伝えきれない部分が多いのですが、
それでも向き合うことの大切さを書き足して、伝え足して、これからも加筆修正を繰りかえしつつこれからも発信していきます。

 

向き合うというのは、
己や他者の存在、状態、状況、行動、命、心などを罰することではありません。

向き合うというのは、
己や他者の存在、状態、状況、行動、命、心などの善悪を決めることではありません。

向き合うというのは、
己や他者の存在、状態、状況、行動、命、心などの正義の是非を決めることではありません。

向き合うというのは、
己や他者の存在、状態、状況、行動、命、心などの正解の是非を決めることではありません。

すべからく、すべてが、在るを知ることです。
すべからく、すべてが、在ることを感じ、味わうことです。
すべからく、すべてが、シンラのひとつであり、すべての「ソ」であるということ。
(「ソ」…祖、素、礎、組…∞)

そしてすべてがシンラに生まれ還る。

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