ご神木を傷める。在り方を考える。

ご神木を傷める。在り方を考える。

先日、とある方々と共に新年節分けの御参拝をご一緒しました。
そこでの出来事で、あるお寺さまの境内の景色を楽しませていただきながら梅を楽しんでいたところ、
ご神木の一部に粗塩らしきものを掛け置きされているのを発見しました。
団体行動ということもあるし、万が一、誤解されてこちらが悪者になる可能性もあることを考え、
最初は見て見ぬふりをすることもやってはみたのですが、
やはり捨て置けず、すぐさま引き返してできる手立てで塩を撤去させてもらいました。

ざっくりと取り終えた後の写真を撮っておいてTwitterにポストしたのですが、
こちらが想像した以上に沢山の方に知っていただく機会となり、
塩害の問題を知ってもらう流れも作れた上に、
さらに犯罪行為で伐採する業者がいることもあることが周知される流れになりました。

御神木とする名称のもどかしさが私には正直あります。
どんな樹木であろうとも、全ての木々、樹々にはおかげさまが宿っています。
そのおかげさまの樹齢の長さや場所によっては確かに宿るおかげさまの質は違いますが、
どんな樹木にも宿りがあることを考えると、自然崇拝、山岳信仰観点からは全てが神木です。
私たちの生きる場所にはたくさんの数えきれない命があります。
それらに生かされているからこその私たちだと思うのです。

自然と共に生きることは決して簡単ではなく、難しい。
綺麗ごとだけでは済まされないことがすでに私たちの暮らしの中に根付いています。
その中でこれらの信仰を前において生活することは様々に矛盾があります。
暮らしの中にいかに信仰を保ちながら、どのようにもっと折り合いをつけていけるだろうか?と頭の片隅の中ではいつもめぐっています。

都合のいいところだけを抜き取って、まるで自然崇拝信仰者のように立ち振る舞い、
都合のいいところだけを抜き取って、まるでその中心に自分の縁起を回しているようにスピリチャルを語り、
都合のいいところだけを抜き取って、まるで聖人君子のように自然相手に仕事をしている方々を責め立てる。

自分の行いを含めて、己の育った系譜の信仰の在り方を思い知らされます。
これもまた、自分を取り囲むシンラという自然が教えをくれているのだと痛切痛感するのです。
未熟ながらの自分ができることは、何があるかを常の前提において身の動きは決めていきたいと思うのです。

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