環境を知らずに、己を知らずに、ナニコトも成されない。

環境を知らずに、己を知らずに、ナニコトも成されない。

よくあるコメントや質問、相談で常に言われ、言うことなのですが、
あらためてここに自分のために記しておく。

未来の自分に期待をしてのなりたい姿や、掴みたい幸せのカタチがつかめるようにと、
アドバイスを求められる(相談される)ことが多々ある。
そのたびに答えることは、

基本的に何事も自責であること、現実の状況をしっかりと見極めて、
未来の欲しいものを掴むためにすべてを変えて行動し継続すること。

というようにしている。

自責であること。
これはもう当たり前に目の前に置く必要がある。
説明は省く。

現実の状況を見極める。
目指すものを現時点でつかめていない段階で、自分の置かれている環境、自らが置いている環境などからできあがっている思考や行動のパターンでは希望する未来は作れないという現実をまずは受け入れる必要がある。
そしてその環境が自分ではどうしようもない大きな土台からくるものなのだとしたら、そこを修正しようとするのは土台無理な話なので、そもそもにその土台に立ち向かうというエネルギーを割かない。
もっと別な角度を用意できるのかどうかを思考する。
現状、40年以上の鑑定の中で本当の意味でコレに属する相談というのは両の手にも満たないので、ほとんどの相談は自らが置いている環境と言えるだろう。
そして自らが置いている環境という前提の中で、どうしてその思考行動パターンがまずいのかを分析する必要がある。
その分析から思考行動の癖やパターンを変化させていくことで、欲するものが手に入る可能性が変わってくる。

あくまでも可能性である。

どうして可能性の話になるのか。
欲しいものがどのタイミングで手に入るのかは、性別や体力気力、個人の資質と技術、時間の投入量によってすべてが影響を与えるからだ。
当然のように、年齢が重ねれば重ねるほど、人は物覚えが悪くなるとされているし、体力も違ってくる。
また自らが置いている環境による責任の在り方などによっては、投入できる時間量というのも個々に違う。
それゆえに、同じものを目指していたとしても、個々によっては全く同じ手法や条件が当てはまらない。
だからこそ、己の資質や環境をよくよくと知り、手に入る条件をいくつもクリアしていくほかない。
それらの条件クリアに不満を垂れるものには、何も成し得ることはできず、望む自分の理想には遠のくだけだ。

アナタが望むその場所に当たり前にいる人たちにとってみれば、
その努力量や思考の在り様などは、当たり前に普通のことだったりするので、アナタの苦しみはわからないことがほとんどだ。
なぜならば、そのように生きて暮らしているのが本当に呼吸の如く当たり前だから普通のこと。
一日何時間、十何時間と勉強をしたり、それについて学び続けたり、考えていたりするのは極々日常的なことで、わざわざと時間を数えたり、大変さも苦労も感じたり、イチイチと他人と比較したりもしない。
何かのモノコトと併用しながらそのことに勤しむなどは当たり前のこと。
脳の使い方そのものがその環境に居ないアナタとは違うのだ。

としたら、アナタがやらなくてはならないことは、
今のままであろうとするアナタでは、その欲しいカタチは一生涯、手に入らない。
ならば、今のままではないアナタをやり続けて、やり続けて、習慣化以上の当たり前にまで価値観、感覚を変化させるほかない。

他者を変えようとしても無理、なのはこういうことでもある。
まずは自分そのものが今の環境に向き合って、どういう距離感と感覚で過ごす必要があるのかをよくよくと知ることである。
周りは変化するアナタによって対応が変わってくる。
アナタ自身がアナタを変えることで環境は変化し、未来も変わるのである。

『今のままで』が良くて、でも未来は変えたい。というアナタは私に相談をしてはならない。
何もしない人に、出せるまじないは何もなく、
まずもって何もしない人に、まじないは何一つ作用しないからだ。

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