令和六年だからこそ。

令和六年だからこそ。

開運について取材されたり、聞かれることは多々あります。
この仕事をしていれば当然の質問であり、意識する部分でもあるのですが、
いつもこの開運という言葉に違和感の欠片を感じるのです。

開運するということは閉じている何かしら部分を開いたほうが良い。
閉じているのは良いことではない、という前提です。
ですが本当にそうでしょうか?
嶽啓道の考え方としては、何事も開きっぱなしは良いとはせず、
時には閉じておいた方が良いコトもあるとします。
閉じているときというのは、いわば休憩の時でもあり、
熟成する必要があったり、思案試行を閉塞的な空間で行う必要性があるときだったりします。
季節が巡るのと同じ、日々の天気が変わるように、閉じておいた方がいいタイミングもあるのです。

常に開運し続けることを求めているということは、
常に閉じているところばかりに意識が向いているともいえます。
なんなら開いていることにさえ気づいておらず、恩恵にケチをつけている可能性が大です。
そしてさらに正しく閉じている状態を受け入れていない可能性もあるということです。
受け入れていない段階で、正確に本来の自分の状態を把握していないわけですから、
何をもって本来の自分にとってのいちばん善いとされる開運とするのかもわかっていないということです。

己の状態、器、質、可能性の全てにおいて知らずに欲しがるというのは、
あまりに短慮というものでしょう。
見合わないモノばかりを追い求めてしまうのは、自分の可能性をつぶすだけでなく、
様々に心の余裕も無くしてしまいます。
余裕のないところには楽しみや楽しさは見つけることはできず、窮屈な生き方になってしまいます。
そしてその窮屈をしている人を好ましく思う他者はいませんから、当然のように共感を得辛くなり、応援や助けが入りにくくなるのです。

いずれにしても、開運を追いかけたくなるときほど、あらためて自分の在り方や日々の暮らし方を見返す必要があるのです。
その時に下方修正する行いや選択決断する様子におかげさまが好感を持てば、自然の流れで助けが入り開運の流れになる、ということは多々あります。
小さな切っ掛けが大きな流れに代わることは往々にしてあるものです。
この小さな切っ掛けをまずは作れる人になることが大切で重要です。
そのためにも、何か人生を大きく変えたい、自分を変えたいと思う時ほど日々の今のある小さな綻びから修正をかけていくことです。
そして、その小さな綻びほど習慣化された悪い日常の癖や思考の癖をやめるという大きな決断が必要だったりするのです。

令和六年はどのような人にも共通に与えられている開運のひとつとして、自分の良くないと思う行動や悪癖を断ち切る行動に背中を押してくれる流れがあります。
この機会に今一度、自分の在り方を見返して、行動を変えて、本来の自分の良さを生かして過ごしていきましょう。

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