好きなことを知っておく。

好きなことを知っておく。

先日、「あじわう」について書きました。
私は自分が色んな意味で欠けていると感じることが多いのですが、
その中のひとつに「好きなこと」を知っているようで知らない、わかっていない、という部分があります。
気づいたころから様々な事情から「あきらめる」という前提でモノコトを見ていることが多かったので、好きなモノコトに対して鈍感に生きることの方が楽だったのです。
楽を越えて、考えないほうが円滑である、という判断をしていました。
そして、その弊害は大人になってから私自身を苦しめることにもなり、他者との関係においても困ることが多々ありました。
良くも悪くも、こだわりがあるようでこだわりがない。
でも実際には、なかなかのこだわりが各所にちりばめられていて、自覚すればするほど生きづらい。
で、またこの自覚をしないほうが楽である。円滑なはず、という脳内構造をたどるのです。
なんなら、再びその部分の感情感覚の全てを手放しておけば問題ない、という合理的な方へと行動思考は動きます。
合理的なように見えて、自分を大切に扱うことからはかけ離れていくという悪循環です。
この数年はその中の葛藤を感じながらより自分をしっかりと詰めるようにしていて、さらにそこの中から、「好き」を探るというものをしています。
数年の間に少しずつ自分の感覚というものを探り実感するを選択しているおかげで、様々な「好き」が見つかり出して手に取る、体験する、経験するを片っ端から繰り返しています。
本当の意味での「好き」を見つけるのはなかなか難しいものだと考えてしまっていましたが、この片っ端から繰り返していると、段々と自然と精査されていくのです。
正しく早く手に入れようとすればするほど思考の方が先に入り、感覚が鈍るのです。
やってみるか?やってみよう。どうだろう?どうだー!の勢いで手に取り、体験し、経験をすると、面白いくらいに自分の中の好奇心が高まってくるのです。
それら繰り返しは、一回で満足するものもあれば、数回繰り返して終了するものもあります。
そしてたまに継続的に続いてから、収集という分野にまで広がり、やがてこの一定の量と質を手にし始めると、これもまた次に移っていく、という流れです。
その中でも、「あぁ、これは手放さないな。好きだな。」という部分がいつの間にか自分の中に育っていることにも気づきました。
一気に駆け上がるような思いのモノもあれば、じんわりと沁み込むように、いつの間にか虜になっているモノもある。
それらにどんなふうに感情が揺れ動いて、行動になり、身体が知ったときにやがてそれらがより深い感覚となっていき、更にそこから広がる視野と好奇心がやってくる。
そうやって今の私は数年をかけて、自分の中の「好き」と向き合ってきていて、よりその感覚がはっきりとあじわえるようになってきています。
年齢的なものや体調的なモノももしかしたら今後は大きく影響を与えるのかもしれませんが、
そこに利便や損益などは関係なく、ただ好きなモノを知っておく、抱えておくをするだけでイイということを繰り返すだけで、人生の彩りは大きく変わっていくのでしょう。
齢50を過ぎても、こんな風に未熟ながらも自分の好きをゆっくりと確かめる時間を手に出来ているのは、ほんに有難いことなのだと思うのです。
無駄な時間とお金のかけ方なのかもしれませんが、なかなかにこれは気分のいい、気持ちのいいものですね。

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